飯塚繁雄さん(家族会代表)
  S13、1938年・東京都中央区生れ。
  田口八重子さん(S30,1955,8,10生・現在58歳)・1978年6月ころ、仕事に向かうためベビーホテルに2人の子供を
  預けたまま行方不明。
  繁雄さんは八重子さんのお兄さん。八重子さんのご長男が耕一郎さん。繁雄さんは耕一郎さんを「我が子」として
  育て、21歳のときすべてを打ち明ける。
  飯塚耕一郎さんは八重子さんを未だ「母」と呼べない。理不尽な苦難の人生・・・。
  S62、1987年11月の大韓航空機爆破事件の犯人「金賢姫」(キム・ヒョンヒ)の日本人化教育係「李恩恵」(リ・ウネ)が
  田口八重子さんだったとされる。
  それが判る経過は飯塚繁雄さんにとって「犯人」扱いにされる苦い期間もあった。
  家族会代表としてアメリカ各地・ジュネーブなど国際的な啓蒙にも努めている。図書「妹よ」など。

  別紙は飯塚耕一郎さんが、「母」に宛てて金賢姫に依頼した手紙。
  北朝鮮による拉致により破壊された家族を、痛いほど妙実に映し出す。



金賢姫様へ
前 略
突然の手紙をお許しください。私は田口八重子の長男の耕一郎と申します。
私の母であると言われている「李恩恵」について、お話を聞かせていただきたくペンを取りました。金さんにとっては、もう思い出したくない話かもしれません。
しかし、私には母親の思い出がまったくないのです。
母が北朝鮮に拉致されたのは、私がまだ1年半のときでした。
母親の兄である飯塚繁雄に引き取られて二十五年、母のことは写真と養父から聞く思い出以外には何も知らずに生きてきました。
それまで、記憶にない母に対する感情は正直言って曖昧なものでしかありませんでした。抱いてもらった思い出も、叱られた思い出も何もないので、当然なのかもしれません。
2002年9月に、母の死亡という報道を海外出張先で知りました。そのとき心が張り裂けそうな衝撃に駆られました。どうしようもない虚無感に駆られ、涙を流しました。
そのときの気持ちはいまだに自分の中で整理できていないのですが、きっと自分の中に、二十五年ものあいだ触れることができなかった母親に対する感情がない、と知ったからだと思います。
私には、実母の写真を見ても、どのような声で、どのような笑顔をしていたのかまったくわからないのです。そんな母に対してどんな感情を持てばいいのかわからないのです。
ですから、金さんから母のことを聞いて、一片でも母の面影を自分の心の中にじかに焼き付けたい。私はまず、このことから始めたいのです。
これから私が見るべき明日に向けて、そして未来の家族のためにも。
空白になっている母の面影を少しでもつなぎ合わせていきたいのです。
お忙しい中、このような手紙をご覧いただき、ありがとうございました。
どうかご自愛ください。また、乱文失礼いたしました。
敬具
飯塚 耕一郎
○2004年2月に手紙を外務省に託した。外務省からは何の連絡もなく、その後の経過は聞いていない。

inserted by FC2 system